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天王寺ゆかりの武将、真田幸村も風俗がお好き?【その②】

天王寺ゆかりの武将、真田幸村も風俗がお好き?【その①】からのつづき

薄田兼相のその後

冬の陣は真田信繁の真田丸での奮戦によって和睦が結ばれるが、その5ヶ月後には大坂城は堀を全て埋め尽くされた状態で再び大坂夏の陣が始まる。籠城は不可能と判断されたため、豊臣軍は城の南方から正面切って戦うしかなかった。

この時、兼相は後藤又兵衛、明石全登、木村重成らと共に先陣として出陣していたが、兼相は濃霧によって進軍が遅れてしまい、結果として8時間の遅延の後に彼が到着した頃には第一陣の又兵衛が戦死してしまっていた。

兼相は前回の遊郭(風俗に通っていた)事件の汚名を返上するために奮戦し、幕府軍は徐々に押し返していき、兼相は折れた刀を棄てて槍に武器を持ち替え、槍が折れたら剣に持ち替えて、次々と敵兵を斬り伏せていく。

そこに川村新八という男が現れて馬上の兼相を倒そうとし、兼相は新八の攻撃をよけて反撃しましたが、兜によって刀がはじかれてしまう。

兼相に組み付いて馬から振り落とそうとする新八。そこに同じく水野配下の中川島之介が兼相の馬を槍で突いたので、馬がのけぞって兼相は馬から落ちてしまうが、兼相はそれでも体勢を崩さずに新八と島之介の2人を押し倒す。しかし状況を見かねた勝成の小姓・寺島助九郎に足を切り落とされ、体勢を崩した兼相はその場に倒れてしまい、新八、助九郎がその隙に兼相を刺し、とどめに新八が首を討つ。

無双の剣豪らしい、壮絶な死にざまだった。

兼相の享年は不明だが、重太郎と兼相が同一人物なら50代くらいだろう。しかし、異説では23歳の若武者だったとする説もある。

薄田兼相の生涯はその殆どが講談などの民間伝承から端を発する話によって知られており、そのせいもあって彼の人物像は今一つ統一した見解が現れていない。

そもそも、岩見重太郎が架空の人物であるとの説から薄田兼相もまた実在しないとは言わないまでも、その人物像はかなり脚色されたものだと考えるべきなのか。

兼相はどちらかというと戦国武将というよりは宮本武蔵のような流れ者の剣豪を彷彿とさせるタイプの人物かもしれない。

しかし、彼の遊郭(風俗通い)事件は現代の歴史マニアも喜んでイジるところとなっているようだ。

たった1回の素行不良でそれまで築いた信頼が完全に崩れ去るというのは、いつの時代も変わらない。

そういえば、風俗によって失態をおかしてしまうといったニュースがまだ記憶に新しい。

徳島県の町立小の男性教諭A(28)が修学旅行先のホテルに風俗嬢を呼び、警察沙汰になった問題。Aは職務違反で懲戒免職となったが、意外にも「熱血先生」として周囲の信頼は厚かったという。

Aは小6の担任で、先月27日に修学旅行の引率で奈良や京都を巡り、夜は大阪市内のホテルへ。子どもたちを寝かせた後、深夜11時ごろまで他の教員らと翌日の打ち合わせをしていたという。

「子どもたちとUSJに行くための話し合いをしていました。もちろん、お酒は飲んでいません。A先生は12時ごろに子どもたちの部屋の見回りをした後、自分の部屋に戻り、すぐに風俗嬢を呼んだといいます。1時ごろから30分ほど楽しんだ後、無理やり“本番”を迫ったそうですが、女性は拒否。カンカンになって警察に相談。早朝、A先生は警察に呼び出される羽目になった」

Aが楽しんだ部屋と同じ階には男子児童らも泊まっていたというから救いがたい。Aは他の教員に知らせずに、警察署へ出頭。朝6時ごろ、部屋にいないのを不審に思った教員がAに電話し、コトが発覚した。

「A先生は今年4月に赴任したばかりで、前の学校からの評判もよかった。スポーツ好きで運動会などを仕切る体育主任も務める熱血先生でした。子どもたちからも人気だった。奥さんや幼い子どももいると聞いていたので、みなビックリしています。問題の翌日からA先生は『体調不良』ということで引率から外しましたが、子どもたちは寂しそうでしたね」

薄田兼相を見るように、みんなの信頼を奪った“罪”は重い。

今の時代も昔の時代も、男という生き物は変わらないということだ。

話は戻るが真田昌幸も真田丸では吉野太夫という絶世の美女といわれる遊女、今の時代でいう風俗嬢とのエピソードが描かれている。

真田昌幸の実子、真田幸村も性豪だったといわれており、九度山に配流されてからはたくさんの子供をさずかったと聞くと、やることのない男がすることはいつの時代も同じだ。

天王寺の茶臼山が今では風俗遊びをする男達の憩いの場となっているのも真田幸村の望んだことだったのかもしれない。

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天王寺ゆかりの武将、真田幸村も風俗がお好き?【その①】

前回、天王寺有数のラブホテル街で歴史的にも有名な真田幸村ゆかりの場所、茶臼山の事をお話しさせて頂いたが、今回はその天王寺ゆかりの真田幸村や名を残した有名武将の色にまつわるお話を少し話したいと思う。

※上記記載の記事はこちら 【天王寺でデリヘルを呼んだあの場所が実は有名武将ゆかりの地

さて、英雄色を好むとはよく言ったもので、日本史を彩る偉人たちは“色”にまつわる逸話には事欠かない。昨年放送されていた大河ドラマ『真田丸』でも、大名たちの側室や子どもがわんさか登場する。毎晩相当お盛んだったことだろうと想像するに難くない。

実際、真田幸村も数多くの子どもを残しており、特に徳川家康に蟄居(ちっきょ)を命じられ九度山(くどやま)に移って以降14年間で最も多くの子供を残している。

三大武将で有名な織田信長は延暦寺を焼き討ちするなど冷徹なことで知られる信長だが、女性関係は意外にジェントルマンで、たとえば側室のお鍋の方は「夫が戦死して困っている」と直談判され、もらい受けることにしたとか。最終的には9人の妻をめとり22人の子をなしたが、男色を好んだ逸話も多く残している。

豊臣秀吉は宣教師ルイス・フロイスをして並外れた女好きと言わしめた好色家だが、後継ぎを作るためにあっちこっちで試していた…という見方もある。その好みは偏っていて、公家や大名の血筋を好んだらしい。いわばお嬢様好き。正室の北政所、側室の茶々の方を含め、13人の妻をめとったが、血縁を繋いで成人した男子は秀頼ただひとりだった。

徳川家康は17人の妻をめとり、16人の子をなし、長きにわたる徳川家繁栄の礎を築いた。身分を問わず関係を持ったとされるが、「2人の正室に振り回されたから、お嬢様はウンザリ」という説もある。ちなみに子どもの半分は、実は齢50を過ぎてからもうけた。老いてなおパワフルな御仁だったようだ。

しかし色を好んだ武将でも上述のような英雄ばかりでもなかった。

例えば大坂の陣で豊臣家に協力した武士、真田幸村のような英雄とは反対に類稀な剣術の腕を持ちながらも一夜の失態で汚名を着せられた薄田兼相(すすきだかねすけ)という時代に似つかわしくない人物もいた。

薄田兼相の前半生は謎に包まれているが、通説では山城国或いは筑後国の出身で小早川隆景の指南役だった岩見重左衛門の次男として生まれた岩見重太郎が、隼人の元々の名前だと言われている。薄田兼相(すすきだかねすけ)の他に薄田隼人(すすきだはやと)と呼ばれることもあったそうだ。

薄田兼相は父の影響で幼少期から剣術を学び、「鞍馬八流」という奥義を取得したとされており、そんな中、父が同僚の広瀬軍蔵という人物に殺されている。

そこで重太郎は仇である広瀬を追って刀一本で諸国を流浪したと言われている。この時期のエピソードとして、重太郎は道中数々の化物を退治していったと伝わります。

中でも有名なのが、ヒヒ退治の話だ。ヒヒ退治の説には諸説はあるが、おおざっぱに言えばヒヒの為に生け贄(いけにえ)となっていた娘の代わりに重太郎が生け贄えとなり、ヒヒを一刀両断したという話。これは重太郎の武勇を示すこのエピソードだが、中には次の紹介するような一風変わった説も伝えらえている。

広瀬を追って野里の村(大阪市西淀川区野里)にたどり着いた重太郎はある奇妙な噂を耳にする。この頃、野里の村では秋の実りの季節になるとヒヒがせっかく育ててきた稲を根こそぎ奪い去っていくという事件が起きていた。

困った村人達が住吉大社に「ヒヒを退治してください」とお願いしたところ、次の日に野里に立ち寄った代官が神からのお告げを伝えに来て、『ヒヒを鎮めたければ、ある限りの供え物と汚れのない村娘を差し出すことだ。正月の16日、いけにえとなる娘に白羽の矢が立つ。』

このお告げを信じ、野里では毎年正月の16日になると村娘を差し出してヒヒの怒りを鎮める日々を送っていたそうだ。

しかし、この年にいけにえとなった娘は棺から抜け出してしまい、そこに彼女と恋仲であった男性とその仲間達が現れ娘を救出する。

彼らは毎年罪もない娘達が犠牲になることを許せず自ら立ち上がったのだ。ちょうどそこにヒヒの大軍が現れ、男達はヒヒ達を落とし穴にかけて銃や火で応戦した。

すると、ヒヒがなぜが人の言葉をしゃべって「熱い、熱い!」というではないか。よく見ると、ヒヒは決して獣なんかではなく、お告げを伝えに来ていた代官がその正体だったのだ。

男達は代官をその場で殺してしまいますが、どんな理由であれ役人殺しは重罪。男達はそこでうまく周囲の追及を逃れるためにこんな噂を野里の村に流したそうだ。

「やあやあ、憎っくきヒヒをあの岩見重太郎が成敗してくれたぞ!」「我々は彼の剣術に感じ入った。いざ、弟子入りだ。お供致そうぞ!」

こうして、この地では岩見重太郎のヒヒ退治伝説は村の若者が自分の罪から逃げて村を去るためにデマがまことしやかに伝えられていったそうだ。

さて、紆余曲折を経て結局重太郎は1590年(天正18年)には天橋立で広瀬を討ち果たすことに成功する。

この話も、「天橋立の仇討ち」として語り継がれている。仇討ちを果たした重太郎は叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田重太郎となったと言われている。

しかし、これも別の説では父の重左衛門がそもそも「薄田重左衛門」だったとされており、その出自には謎が多いのだ。

実はそもそも岩見重太郎と薄田兼相が同一人物ではないとする説もあるくらい、彼に関する確かな記述は、豊臣秀吉の馬廻衆として3000石を領したとするところから。

父が小早川隆景に仕えたこと、仇討ちの年代が秀吉の天下統一期と重複することを素直に考えると、この時点で兼相は30代くらいだろうか?馬廻衆だったことも含めて、同じ馬廻衆だった真田信繁と同僚或いは先輩だった可能性もある。

秀吉に仕えた後の兼相の動向については実はよく分かっていない。しかし、徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見した1611年の時点で禁裏御普請衆(きんりぎょふしんしゅう)に名があることから、国持ちの大名ではないながらも旗本のような形で豊臣家に仕え続けていたのだと考えられる。

おそらく、彼が秀吉に仕えた時期は既に天下統一がほぼ成し得ていたため、持ち前の剣の腕を振るうこともなかったのだろう。或いは父のように剣術指南役として近習していたのかもしれない。いずれにせよ、彼はそれほど注目されるような地位にはいなかったようだ。

そして1614年、徳川家康は豊臣家に対し方広寺の鐘銘に難癖をつけて戦を始めようとするが、大名にも見限られていた豊臣家は、冒頭でお伝えしたように真田信繁ら浪人を集めて対抗する。秀頼の近習だった兼相もこの戦には当然参加しており、浪人達を指揮する立場にあった。

冬の陣では、兼相は兵700を率いて大阪湾に近い木津川口砦の博労淵(はくろうぶち)の守備を命じられている。

そんな中、幕府軍の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)による博労淵砦への攻撃が開始されるのですが、この時、兼相は何をしていたかというと、何と前日から遊郭(今でいう風俗街)に通っており砦を留守にしていたそうだ。

主将不在の守備隊は当然統率が取れないままにあっさりと倒されてしまい、かくして博労淵砦は陥落したのだ。

また、同日に野田・福島で水軍を率いていた大野治胤(おおのはるたね)もまた九鬼守隆らに敗北し、大坂城はさらなる危機に陥ってしまい、治胤は悪天候に気をよくして敵を甘く見ていたことから大敗してしまっていたのだ。

この知らせを聞いて、豊臣家では迂闊な兼相、治胤を指して「橙武者(だいだいむしゃ)」と揶揄するようになった。

橙とは正月飾りに使う蜜柑のことで、酸味が強く飾りくらいにしか使えないという意味で「見掛け倒し」という皮肉を込めて名づけられた。

大事な戦の最中に油断をし遊郭(今でいう風俗街)に通っていた兼相の落ち度は、弁明の余地がなかった。  ~つづく~

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